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安価のテーマで記事を書く。

ID:Jhd7W6Ln

ストレス解消法

自分はストレスを溜めない方だと思っています。そもそもストレス元から逃れます。
嘘です。
東京に引っ越して約1ヶ月ですが、ストレスで十二指腸炎、びらん性胃炎になっています。
この街は頭がおかしいです。マジで。東京の愚痴もそのうちブログにしていきたいと思っています。

「すべての悩みは対人関係の悩みである」

アドラー心理学の本で書かれていた文章です。
アドラー心理学といえばNEPのラジオで心理学を学んでいた人が少し話をしてくれていました。

NEPのみんなでラジオとか実況しようぜ - Next2ch

個人的には、アドラー心理学認知行動療法はストレスを抑える効果があると思います。
大学時代、暇で暇で漠然とした悩みで鬱になった時、認知行動療法をもっと学ぼうとして
「いやな気分よ さようなら」と言う本を買いました。

いやな気分よ、さようなら コンパクト版

いやな気分よ、さようなら コンパクト版


コンパクト版ですが、500ページに渡ってビッシリ文字が書かれており、いやな気分とさようならすることはできませんでした。
余談ですが、この本を枕にするとちょうど良い高さでよく眠れます。

個人的なストレス解消法は2つあります。

1つ目は文字に起こすこと
500枚入りのコピー用紙と100均のバインダーを用意して、目につく所にペンと共に置いておきます。
そこで、頭の中で考えていることを全て書き出します。
頭の中の抽象的な部分が言語化され、モヤモヤが少し軽減されます。
読み返すのもよし、そのまま捨てるのもよし、毎日考えすぎてるな〜と思った時に書きます。
頭を休めなければずっとストレスが溜まるので、とにかく「考えない」と言うことが大事です。
その為に、頭の中の情報を全て紙に写して考えなくします。

2つ目は友達と遊ぶこと
そもそもな話、嫌なことを考えなければ良いので、考えなくできる状況を作れば良いのです。
個人的には、友達と遊んでいる時は、目の前にいる友達としている楽しいことに目が向きますので、余計なことを考えません。
これもラジオスレで書かれていた、話されていたことですが、「愚痴を言い合う」のはしません。
愚痴を言う為に、愚痴を考えてしまうからです。
スポーツでもなんでも良いので、とりあえずストレス元になる事を考えなくする事がストレスの解消法になると思います。
考えない事、考えるのができない状況に自分を置くことが、自分の中のストレス解消法です。

瞑想もできたら良いのですが、まだ頭の中で数字を数えている時の方が頭の中が真っ白です。


1184文字
イマイチ盛り上がらない

ID:TPw352N5

空飛ぶスパゲティモンスター教


空飛ぶスパゲッティ・モンスター教(そらとぶスパゲッティ・モンスターきょう、英語: Pastafarianism, Flying Spaghetti Monsterism, FSMism)は、ボビー・ヘンダーソンが、「インテリジェント・デザイン説」を公教育に持ち込むことを批判するために創始したパロディ宗教

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教とは - Weblio辞書

私はインテリジェント・デザイン説について、少し思うことがあります。
ですが今回は「宗教」に焦点を当てて日記を書こうと思います。

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パロディ宗教と言えば、中学生時代に一度は友人たちと盛り上がるネタだと思います。
私は中学1年、2年と不登校だったのでそんなネタありませんが…

家から徒歩3分(と言うか家の反対車線に中学校があった)の学校へ行かず
ずっと家や田舎の森の中で過ごしていました。
なので中学時代の思い出はそこまでなく、3年生の頃の友達とは未だに飲みに行ったりしますが、中学辺りの思い出話になると置いていかれ、惨めな気持ちになります。

パロディ宗教と言えば、ジェダイズム(Jediism)*1マラドーナ教(Iglesia Maradonian)など魅力的なものがあります。
とは言え、信仰し心の拠り所としている人もいますので、ネタにすることは少し憚れます。
www.youtube.com

宗教というのは良いものだと思われます。学術的にも少し興味深い分野です。

私は無宗教ですが、無神論者ではありません。私の曽祖父は牧師で、祖母の家系は住職です。
祖父は曽祖父と問題があったのか無神論者でしたが、歳を重ねるごとに、人の「祈る」という行為に何かしらの意味を見出し、以前ほど過激な拒絶はなくなりました。

信仰の魅力、価値について

私は死生観について、これは教育や科学で今のところどうしようもない分野だと思っています。
しかし社会統治において、死生観は重要なもので、これがあるのとないのとでは集団で生活を営む社会の影響がすごく変化するのではないかと考えています。
最近、興味深い話題を見つけました。 www.newsweekjapan.jp

コロナの状況下のスウェーデンの死生観です。この国では死亡率が高く、主に老人がコロナで亡くなります。
当然死にたくない老人もいたり、別れたくない人もいるでしょうが、現在とてつもない拒絶があるわけでもなく、大きな抗議など行われずに進んでいることを見るに、スウェーデンにおいて「老人から亡くなる」という部分については国民の同意が得られているのではないかと感じます。

死ぬことは怖いです。
自死は自分の全ての選択肢が塞がれてしまっても、最後まで残っている選択です。
つまり、人は死ぬまで「死ねばなんとかなる」と心の拠り所にすることができますが
こう言った状況下では、自分の望まぬ形で他の何者かによって自分は死ぬことになります。

死ぬことは怖いです。
なぜなら、死んだ後について何も判明していないからです。
人は未知に対して、畏怖という感情を持っています。
死んだ後どうなるのだろう?
それについて、誰も分かりませんが、誰もそこに行かなければなりません。
「死」自体は「死ねばなんとかなる」という訳ではありません。逃れられません。
人は、そう言った逃れられない恐怖に対して、「死を超越した存在」や「死を生まれ変わりとする」など宗教を用いて真正面から向き合ったのではないかと私は考えます。

信仰の魅力はそこです。問題に対して立ち向かうこと、なんとかして折り合いをつけることです。
それは、個人の意識や価値観ではなく、宗教として全体で共有がされます。
自分の考えや思いは、自分と共に消滅するのではなく、次世代へ受け継がれます。

「幸せについて」もまた別で語る予定ですが、人は失うことにも恐怖します。
宗教によって自分の持つ形のないものは失われず、受け継がれるという「明確な答え」があるため、死に向き合う事もできます。
死ぬこと自体は悪くない、不幸ではないという考えも持ちます。

宗教を持たず、明確な価値観の共有もなく、ただ個人として死んでいく私は信者のような死生観を持ちません。
価値のある自分のものはこのように情報を残すなどして、整理しなければなりません。
そういう生き方ですが、突然そうなれば未練も残ります。
「死なば諸共」という考えは、宗教や教養がなければ生まれる発想ではないかと思います。

無宗教下であれば集団に対する意識などなく、自分主体の思考になるため
宗教のような問題に真正面から向き合う事もなく、不合理な考えで社会を乱すことができます。

日本では「常識」のなかに儒教や仏教の思想が見えます。しかし、明確な宗教もなく「常識」を教義に生活を営んでいます。
非常識な人はたくさんいます。統一された認識がないためです。

宗教は行動指針を統一させる事もできるので、治安維持やコロナを確実に抑えるためにも効果的です。
死生観が統一された社会のみ、実現可能な行動があります。
そういう部分が正しく働けば、そこが宗教の価値なのかもしれません。

どうでもいいですが自分は世界中がウイルスに対して克服できても、日本はこのまま自粛と解禁を繰り返し、ずっとウイルスと戦ってるんじゃないかなと思います。


2667文字
昨日より悪化
宗教のテーマはデカすぎる
死生観・宗教については「ミッドナイト・ゴスペル」2話が面白い

*1:judaism:ユダヤ教ではありません。ジェダイズムです。

ID:DotnxNY0

週で一番心昂ったこと


昂る
読み方:たかぶる
別表記:高ぶる
気分が高揚したり、興奮したりすることなどを意味する表現。

「昂る(たかぶる)」の意味や使い方 Weblio辞書

自分は思春期の頃から睡眠導入剤中毒であんまり過去の記憶がないので
今週一体どんな感情で過ごして来たか、ちょっとだけ自信がないです。

少なくとも私は、人といるときは物凄く明るく振舞いますが、一人の時は静かです。
目の前のことについて、あまり集中できないのか、常に白昼夢の中にいるかのようです。
そんな自分の心が昂る時は、恐らく人と接した時でしょう。

6日前がいつか覚えていませんが、火曜日にiPhoneSE2が届いたようです。
あまり心は昂りませんでした。なぜなら以前はiPhone6sで、サイズもほぼ同じだったからです。
変化について、音質の向上にかなり目がいきました。
しかし、iPhoneSE2にはイヤホンジャックがありません。
お気に入りのヘッドホンで最高音質の音楽を聴けず、惨めな気持ちになりました。

心昂った出来事について。
ふと思い出したのですが、私は新卒の社会人です。
現在コロナの影響で、在宅で研修を受けています。
「働き方」について、人一倍敏感で深く考え込んでいると自負しています。

そんな在宅の研修の中、同期30名で今後の自身の働き方について話し合い、発表する
という場面がありました。

30人全員では意見が纏まらないため、数人ごとに班を分けて議論させることになりました。
そして、班ごとに出た意見をまとめ、全体の意識の傾向を確認しました。

私はリーダーの補助役として、意見をまとめ、可視化する役割を持っていました。
堅実に現状を見据え自分のできる事を全うする考え、失敗を恐れず挑戦する考えや
多様性を尊重し、互いに高あう意見などが出ました。
全体の意見を聞くと、どうやら新人は挑戦について意識し、失敗を恐れぬ事を重要視しているようです。
本当にそれは実現可能なのでしょうか。
研修とは、社会人意識を身に付ける場でもありますが、上司に気に入られる場とも取れるでしょう。
無理でも上司には意識高く、働く姿を見せなければならないと考える人もいるかもしれません。
媚を売るために、どんな手を使ってでもアピールする人間がいます。

最悪な事に、意見をまとめる私の周囲の役持ちはみんなそんな意識だけが高い人間でした。
「不可能はない」「できないなんて言うのは非常識」そんなヤバい暴走した考えが出て来ました。
少なくとも、意見をまとめていた時は「不可能を見つめ、可能な部分を探す事」に重きを置かれた意見が出ましたが
それは「不可能は不可能だが、不可能の一部には可能もあるかも知れない」と言う前向きな意見です。
そこに人を追い詰める思考は存在しません。

発表資料もブラックな思考に染め上げられ、口下手な私が意見し説得する発言力も時間もありません。
物凄く残念で、心残りでした。
その事をちょっと、毎日書く報告書に書いてしまいました。
当然ディストピアな上司もいるので、少しこれについて指摘され、その日は不完全燃焼のような晩を過ごしました。

翌日の発表後、各自反省があり、しんどい指針が生まれたな〜と思っていたのですが
自分と同様の意見である、と言った同僚が数人出て来ました。この場で意見を言えるのは凄いと感じました。
どうやら声の大きい役持ち以外は、そう言ったストイックな思考に納得できておらず
実現可能性を欠いた指針に疑念を持っていたようです。
最終的には意見は覆され、上司の総括も「一度達成できても二度目が達成できない働き方はよくない」
と言う意見で締められました。

自分の発言力のなさはそのままですが、周囲には自分の考えを尊重し、同意してくれる人や
それを取り上げて話をしてくれる人、その話を受け入れてくれる人などたくさんの人がいました。

自分は間違っていなかった事や、味方がいる事に心は昂ったのではないかと思います。
これが月曜だったか火曜日だったか分かりませんが…


1867文字
あまり面白い話ではないと思う。